電車での帰宅途中、自宅の最寄り駅の一つ手前の駅で、それは起きた。次々と乗客が降りてゆく中、ドアの脇のスペースに立っていた私の目に、ホームと電車の隙間に何かが落ちるのが見えた。降りてゆく女性の一人もそれに気づき、声を出した。すると、小学校高学年ぐらいの男の子が振り向いた。どうやら定期を落としたらしい。
男の子が車両内を探そうとしたので、私は「線路に落ちたみたいだよ。駅員さんに言って、取ってもらった方がいいよ」と声をかけた。男の子はホームに戻り、ほどなくドアが閉まる。ホームにはちょうど乗降客を誘導中の駅員がいて、さっきの男の子が声をかけるかな、と見ていたが、男の子はそのままホームの階段を登っていってしまった。これからどうするのだろう?
動きだした電車の窓越しにホームを見つめながら、むくむくと後悔の念が沸き上がる。(声をかけるだけじゃなく、一緒に付いていってあげた方がよかったんじゃないか。落ち着いて見えたけど、もう少し下の学年かもしれない。大人として見届けてあげればよかった…。)
実はドアが閉まる前、私の足はそのまま男の子を追ってホームに出たがっていた。だがその時ちょうど、トランプ大統領の当選について書かれた興味深い記事を読んでいたことや(そう、ちょうどあの日のことだった)、自宅まであと一駅(この日少し急いでいた)という意識も働いて逡巡し、結局、足を動かさなかった。
ああ、やってしまった。苦い思いが広がる。本当に自分がしたい行動を選択できなかった瞬間。頭は色々理屈をつけてくるけれど、身体の感覚はごまかせない。モヤモヤしたエネルギーがどんどん膨らむ。
私は地元の駅に着くと、すぐに反対側のホームから上り電車に乗って隣の駅に戻った。さっき見かけた駅員さんに事情を伝える。すると
「あ、さっきうちの駅員が拾得していましたよ」との返事。よかった!!!!!
ほっとして家路に着いた。(結局、その場で行動した方が早かった。苦笑)
一瞬一瞬の選択と行動の機会はすぐに流れ去り、巻き戻すことはできない。今回はたまたま結果が分かったが、結果を見届けることが難しいケースの方がむしろ、多いのではないか。本当にやりたい行動を選択できず、そのことが心に残っていると、目の前の今この瞬間に100%集中できなくなる。それを繰り返すと、過去をひきずった思いが溜まり、エネルギーが曇ったり澱んだりしていく。今を生きないことは、大袈裟に言えば亡霊として生きるようなものだ。
「生きているどんな瞬間も、その時自分がベストと思える選択ができるようになりたい。」
それは、コーチングを学びたいと強く思った動機の一つだった。それまで、自分の言動を後から悔やむことがあまりに多かったから。その多くは、やりたいことをできなかった、言いたいことを言えなかった後悔。過ぎたことに悶々とする、そこにどれだけエネルギーを費してきただろう。もうそんな生き方、嫌だと思ったのだ。
しっかり自分自身と繋がって、どんな小さいことでも、心の底からやりたいと願う選択と行動を積み重ねていく。それが結局、自分の人生を創る。
どんな瞬間も、自分のベストを尽くして生き切っているか。改めて自分に問うきっかけとなった出来事だった。