誰にも奪うことができない自由ー態度価値ー
人生には、ある出来事を体験する前と後では、何かが決定的に違ってしまうことがある。私にとって「夜と霧」との出会いは、まさにそんな体験だった。私の意識を輪切りにして、その断面を年輪のように見る事ができるなら「夜と霧」を読む前と後とを隔てる線が、くっきり刻まれているだろうと思う。
私が持っているのは霜山徳爾の訳による旧版で、巻頭にナチスの強制収容所に関する70ページにわたる解説、巻末に写真と図版が掲載されている。(池田香世子訳の新版ではそれらは削除されている)
本編の理解が深まるだろうと、解説付きの旧版を購入したのだが、まずこの解説を読み通すのが大変に辛い。途中から感覚が麻痺していくようである。記載された事実を事実として受け取るのを、ある時点から脳と体が拒否するようだ。工場の稼働を上げるかのように、収容所で一度に殺せる人数を増やすための効率化が語られること、生き延びる確率や希望のあまりの低さ、徹底的に貶められた尊厳。巻末の写真を見た時に、涙とともに溢れ出た感情を、私は言語化することができない。
この苦しい解説を読み終えて本編に入ると、質感が変わってくる。人間が冷酷に、一筋の尊厳も認められず物のように「処理」されていった無機質さに比べ、たとえそれが「悪」の描写であっても、徹底して「人間」が描かれていることに救われるのかもしれない。
フランクルは、精神科医および心理学者の視点から体験を冷静に考察し、収容所における人間心理の変化を書き著しているが、読み進むにつれ、事実の悲惨さ、過酷さとは裏腹に、ある種の透明感や清浄感が内側に生じてくるのが不思議だ。それは恐らく、人間の尊厳とは何か、生きる意味とは何か、という哲学的な命題が語られているからではないかと思う。
言わずと知れた名著について、既存の数多のレビューに屋上屋を重ねるのは躊躇われるが、それでも、どうしても以下の部分を引用したい。
すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。〜中略〜
人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。(p.183)
人間が持ち得る価値のうち、与えられた状況や運命に対してどのような態度を取るかという「態度価値」だけは決して奪われることはない、というフランクルの思想がまさに実体験を通して語られる。そこから続く、与えられた苦悩に「意味」を見出すことができた者だけが、尊厳を失わずに生きる意志を持ち続けられたと語られる箇所が圧巻だ。
何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。〜中略〜
われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。(p.184,185)
歴史は私たちに、状況によって人間は幾らでも残虐非道になれるという事実を、これでもかと教えてくれる。と同時に、同じ状況でも尊厳を失わずにいた人が存在したのも事実だ。自分は果たしてどちらのカテゴリに入りたいのか。
そしてもし、どのような状況下でも尊厳を失わない人でありたいと願うなら、それは日々をどう生きることによって可能になるのか。ずっしり重い問いが、「夜と霧」を読んで以降、私の中に存在し続けている。